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2024 First episode About 高千穂さんのご縁です。 仏教にまつわる色々なお話を、分かりやすくお話していただく番組です。仏教由来の言葉、豆知識、歴史、迷信、風習、教義、作法などなど。 出演は、熊本市中央区京町にある仏嚴寺の高千穂光正さん。お相手は、丸井純子さん。
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★地上波ではRKKラジオ(熊本)FM91.4 AM1197で、毎週水曜日 午後6時10分から放送中。是非生放送でもお聴きください。
Publisher RKKラジオ
Category religion & spirituality
Language ja
Explicit No
First episode 1 Oct 2024
Latest episode 28 Oct 2026 Latest episodes 122 episodes in the feed.
28 Oct 2026
【布施の心とキャッシュレス】──ダーナの精神と現代の寺院事情 🔶お布施の語源「ダーナ」と三つの施し
お布施の語源は、古代インドのサンスクリット語「ダーナ(Dāna)」に由来し、「自分の持ち物を惜しみなく他人に与える(施し)」という意味があります。
仏教におけるお布施には、大きく分けて金銭や物品を施す「財施(ざいせ)」、仏さまの教えを説く「法施(ほうせ)」、人々の恐怖や不安を取り除く「無畏施(むいせ)」の3種類があります。また、お金や物がなくても笑顔や優しい言葉などで実践できる「無財の七施(むざいのしちせ)」という教えもあります。
🔶見返りを求めない「お布施」の本質
お布施において最も基本的な考え方は、「見返りを求めない」ということです。「これだけ施してやった」「これだけ払ったのだから」という見返りや自己顕示欲を離れ、純粋に相手を思いやり、ともに助け合って喜ぶことがお布施の本来の姿です。
つまり、お布施とは現代のビジネスにおける「サービスに対する対価(サービス料)」ではなく、あくまで仏さまや仏法に対する自発的な「お気持ち」の表現なのです。
🔶寺院におけるキャッシュレス化の波と背景
近年、大きなお寺や観光寺院を中心にお賽銭や拝観料の「キャッシュレス決済」が導入され始めており、今年からは宗教法人専用の決済サービスも登場しています。
この背景には、外国人観光客(インバウンド)や現金を持ち歩かない若い世代のニーズへの対応に加えて、「大量の硬貨(小銭)を銀行で入金・両替する際の手数料が非常に高く、寺社側の深刻な負担になっている」という現実的な経営課題があります。人手不足の中で大勢の参拝者をさばくための苦肉の策という側面も大きいのです。
🔶効率化(タイパ・コスパ)と失われゆくぬくもり
一方で、お布施やお賽銭のキャッシュレス化に対しては「お賽銭箱に小銭を投じる(チャリンと鳴らす)体験や、直接手渡しする際のぬくもりが失われてしまう」といった懸念や批判の声もあります。
現代はコストパフォーマンス(コスパ)やタイムパフォーマンス(タイパ)といった効率が極端に重視される時代ですが、情緒や心を根底に置かなければ、宗教儀式が単なる「デジタル決済の作業」へと変質してしまう恐れがあります。
🔶時代が変わっても変わらない「ダーナ」の心
お札や授与品など、金額が明確に決まっているものに対するキャッシュレス決済は合理的かもしれません。しかし、「お気持ち」であるお布施までが決済サービスに組み込まれ、プラットフォームへの手数料や税金の問題が絡んでくると、本来の「ダーナ」の精神から外れてしまう難しさがあります。
時代の流れとして新しい技術や変化を受け入れることは避けられませんが、どれほど決済手段が変わろうとも、「お布施=ダーナ(惜しみない施し)」であるという本質と心を決して見失わないことが何よりも大切です。
🔶今週のまとめ
【1】「お布施」はサンスクリット語の「ダーナ(惜しみない施し)」に由来し、財施・法施・無畏施・無財の七施など様々な実践方法があります。
【2】お布施の根本は「見返りを求めない」ことであり、サービスに対する対価(料金)ではなく、仏法に対する自発的な「お気持ち」です。
【3】近年、観光寺院などでキャッシュレス化が進む背景には、参拝者のニーズの変化や、硬貨取扱手数料の高騰による寺社側の経営圧迫があります。
【4】効率化が進む一方で、「お賽銭箱に入れる体験や受け渡しのぬくもりが失われる」といった情緒面での懸念も指摘されています。
【5】時代と共に決済手段が変化しても、お布施が単なるビジネスの支払いにならないよう、「ダーナ」の精神と心を忘れないことが大切です。
次回テーマは「紅葉から学ぶ」です。
どうぞお楽しみに。
お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。
お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
21 Oct 2026
【浄土真宗と菊(聴く・聞く)】──菊の花に学ぶ「聴聞」と阿弥陀さまの救い 🔶日本人に馴染み深い「菊」と仏花の歴史
毎年秋(10月中旬〜11月頃)になると、西本願寺をはじめ各地のお寺で「献菊展(けんぎくてん)」が行われます。菊はパスポートや皇室の紋章(菊花紋章)にも用いられるなど、日本人にとって非常に格式高く馴染み深い花です。一方で、菊といえば「お葬式やお墓にお供えする仏花(ぶっか)」というイメージを持つ方も多いでしょう。
しかし、お葬式などで菊が仏花として定着したのは、実は戦後(昭和時代)になってからのことです。昔の葬列では、その季節の野の花など、自然の中にある花が使われていました。戦後になり、温室栽培などの技術発展によって一年中安定して菊が栽培できるようになり、日持ちの良さも相まって仏花として広く用いられるようになったという歴史があります。
🔶花の終わりを表す「菊が舞う」という風流な表現
日本には花の終わり(散り方)を表す美しい言葉の文化があります。例えば「桜は散る」「梅はこぼれる」「椿は落ちる」などと表現されますが、菊の場合は「菊が舞う」と表現されます。
菊は枯れても花びらがバラバラに散って落ちることがなく、花全体が垂れるように枯れていきます。その姿が、まるで風に吹かれて舞い踊っているように見えることから「舞う」と表現されました。こうした風流な表現からも、日本人が菊という花に特別な感情を寄せてきたことがわかります。
🔶「聴」と「聞」の違いと浄土真宗の「聴聞」
浄土真宗において、お寺で阿弥陀さまの教えを聞くことを「聴聞(ちょうもん)」といいますが、この「聴」と「聞」の二つの漢字には明確な違いがあります。
「聴(耳へん)」は、自分から意識して自発的に聞こうとすること(例:ラジオを聴く)を指します。一方、「聞(門がまえ)」は、聞こうとしなくても向こうから自然に耳に入ってくること(例:救急車のサイレンが聞こえる)を指します。
浄土真宗では、この「聴聞」という言葉について、「『聴』は仏さまにお許しをいただいて聞かせていただくこと、『聞』は仏さまの教えを疑いなく信じて聞き入れること」と深く味わいます。最初は自分の意志で教えを聞きに行き、やがて阿弥陀さまの呼び声(教え)が私に至り届き、それをそのまま信じて受け入れる身になるという、仏法との尊い出会いが表されています。
🔶親鸞聖人が説く「聞」──仏願の生起本末を聞く
浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は、主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』において、「何を聞くのか」という問いに対し、次のように示されています。
> 「聞(もん)といふは、衆生(しゅじょう)、仏願の生起本末(しょうきほんまつ)を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」
「生起(しょうき)」とは、なぜ阿弥陀仏が私を救おうと本願を起こされたのかという理由です。それは、私が自己中心的な煩悩にまみれた存在であるからです。
「本末(ほんまつ)」とは、そんな迷いの命である私を、必ず悟りの仏へと成らせるという阿弥陀さまの確かな働きのことです。
つまり、私のありのままの醜い姿(生起)と、私を絶対に救い取るという阿弥陀さまの広大な慈悲(本末)を、私の都合や計らいを交えずにそのままお聞かせいただく(疑心あることなし)ことこそが、浄土真宗における「聞(聴聞)」の本質なのです。
🔶色眼鏡を外して「ありのまま」をお聞かせいただく
菊の花の本質は同じであるにもかかわらず、ある人は「格式高い尊い花」と愛で、ある人は「お葬式の縁起の悪い花」と避けます。それは、私たちが物事を自分の都合や価値観という「色眼鏡」を通してしか見られないからです。
聴聞とは、そうした自己中心的な見方しかできない煩悩具足(ぼんのうぐそく)の自分自身のありのままの姿に気づかされ、そんな私こそが阿弥陀さまの救いの「目当て」であるとお聞かせいただく尊い時間です。菊の花を仏前にお供えするたびに、自分の色眼鏡に気づき、教えを聞き受ける「聴聞」の大切さを味わうご縁としたいものです。
🔶今週のまとめ
【1】西本願寺の「献菊展」や皇室の紋章など、日本人に馴染み深い菊の花が「仏花(お葬式の花)」として定着したのは、栽培技術が発展した戦後になってからのことです。
【2】日本の言葉の文化では、花びらが散らずに垂れるように枯れていく菊の美しい姿を、風に吹かれる様子に見立てて「菊が舞う」と表現します。
【3】自発的に聞く「聴(耳へん)」と、自然に聞こえてくる「聞(門がまえ)」を合わせた「聴聞」は、教えを許されて聞き、信じて聞き入れるという浄土真宗の要の歩みです。
【4】親鸞聖人は『教行信証』において、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」と記し、仏さまが私を救う理由と確かな働きをそのまま受け入れることが「聞」であると説かれました。
【5】菊の花を「縁起が悪い」と決めてかかるような自分の色眼鏡(煩悩)に気づき、そんな私こそが救いの目当てであるとお聞かせいただくことが聴聞の真髄です。
次回テーマは「お布施の心とキャッシュレス」です。
どうぞお楽しみに。
お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。
お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
14 Oct 2026
【王舎城の悲劇】──『観無量寿経』が説く救いと韋提希夫人の姿 🔶マガダ国の王位をめぐる「王舎城の悲劇」
古代インドで強大な勢力を持っていたマガダ国の首都・王舎城(おうしゃじょう)を舞台にした、『仏説観無量寿経(ぶっせつかんむりょうじゅきょう)』というお経に説かれている物語です。
国王である頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)と韋提希夫人(いだいけぶにん)の間には長らく子供が恵まれませんでした。占い師に相談すると「3年後に山奥に住む仙人が死んで王子として生まれ変わる」と告げられます。しかし、待ちきれなかった王は使いを出して仙人を殺してしまいました。まもなく夫人は身籠もりますが、占い師は「仙人は恨みを残して死んだため、生まれてくる子はきっと両親に害を与えるでしょう」と予言します。恐ろしくなった王は、生まれてきた子を高い塔の上から産み落として殺そうとしましたが、奇跡的に手の小指を折っただけで命を取り留めました。この王子が阿闍世太子(あじゃせたいし)です。
🔶提婆達多の暗躍と親子の愛憎
一方その頃、お釈迦さまのいとこであり教団の乗っ取りを画策していた提婆達多(だいばだった)が阿闍世太子に接近し、神通力を見せて信頼を得ます。そして「お前は父を殺して新しい王になれ。私はお釈迦さまを殺して新しい仏になる」とそそのかし、ひた隠しにされていた誕生の秘密(親が自分を殺そうとした事実)を暴露してしまいました。
真実を知って激怒した阿闍世太子は、父・頻婆娑羅王を牢獄に幽閉して餓死させようとします。悲しんだ母・韋提希夫人は密かに牢獄へ食べ物を運びましたが、これが発覚すると阿闍世太子はさらに激怒し、実の母まで殺そうと剣を抜きました。
そこで、月光(がつこう)と耆婆(ぎば)という二人の大臣が「古来、王位を奪うために父を殺した者はいますが、母を殺した者など聞いたことがありません。そのような王にはついて行けません」と厳しく諫めました。阿闍世太子は母を殺すことだけは思いとどまりましたが、父親と同じように深い牢獄へと幽閉してしまいました。
🔶韋提希夫人の悲嘆とお釈迦さまの導き
牢獄の中で悲嘆に暮れた韋提希夫人は、お釈迦さまに向かって「私にどんな罪があって、このような悪い子を産んでしまったのでしょうか。そもそも、お釈迦さまはどうしてあんな悪人の提婆達多と親戚なのですか」と泣き叫び、怒りをぶつけました。元はと言えば自分たちが我が子を殺そうとした身勝手な過去があるにもかかわらず、そのことは棚に上げて他人を責め立てたのです。
しかし、お釈迦さまはそれに対して何も説教することなく、ただ微笑まれました。そして眉間から金色の光を放ち、宇宙に存在する数々の美しい仏の国(浄土)を映し出して見せました。それを見た韋提希夫人は、「私は阿弥陀如来の極楽浄土に生まれたい」と願います。お釈迦さまはそれに応え、お浄土へ至るための様々な修行(観法)を説き、その最終的な結論として「お念仏(南無阿弥陀仏)こそが、どんな者でも救われる最上の教えである」と示されるのです。
🔶経典の登場人物は「私の姿」を映す鏡
浄土真宗において、この『観無量寿経』の主人公である韋提希夫人の姿は、決して遠い昔の他人事ではありません。我が身の罪をごまかし、都合が悪くなると他人のせいにして泣き叫ぶその浅ましい姿は、まさに煩悩にまみれた「この私(凡夫)」自身のありのままの姿を映し出しています。
親鸞聖人は、頻婆娑羅王も韋提希夫人も阿闍世太子も提婆達多も、すべての登場人物は「この私一人をお念仏の教えに出会わせるために、お釈迦さまと共に仮の姿となって現れてくださった仏さま方である」と深く味わわれました。完全無欠な善人にはなれない、自分の中にあるドロドロとした悪やエゴイズムと向き合いながら、そんな私を決して見捨てずにすべてを包み込んでくださる阿弥陀さまの救い(お念仏)をいただいていく。それが「王舎城の悲劇」が私達に教えてくれる最も大切なメッセージなのです。
🔶今週のまとめ
【1】古代インド・マガダ国の王舎城を舞台に、親子の愛憎と救いを描いた『仏説観無量寿経』の物語を「王舎城の悲劇」と呼びます。
【2】親が自分を殺そうとした出生の秘密を知った阿闍世太子は、提婆達多にそそのかされて父・頻婆娑羅王を幽閉し、母・韋提希夫人をも牢獄に閉じ込めました。
【3】我が身の罪を棚に上げて他者を責め立てる韋提希夫人に対し、お釈迦さまは黙って数々の浄土を見せ、彼女は阿弥陀如来の極楽浄土へ生まれることを願いました。
【4】自己中心的で浅ましい韋提希夫人の姿は、実は私たち自身の醜い「凡夫」の姿そのものを表しており、経典は私自身の心を見つめる鏡となっています。
【5】親鸞聖人は、登場するすべての悪人や被害者は、「この私」をお念仏の救いへと導くために現れてくださった尊いご縁(仮の姿)であると深く受け止められました。
次回テーマは「浄土真宗と『聞く』」です。
どうぞお楽しみに。
お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。
お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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